鎮西探題滅亡、行方不明の尊良親王彼杵に現る

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西暦1,333年4月27日
6時、菊池武時が後醍醐天皇から譲り受けた錦の御旗を掲げ挙兵し、松原口辻堂(現在の福岡県福岡市博多区博多駅前)から鎮西探題館にかけて阿蘇惟直と共に放火を行った。鎮西探題の使いが早良小路を下り「着到を受け付ける」と大声で叫びながら櫛田浜口にて武時と対陣する。そこに少弐の家来で兵庫の允の饗場が事の詳細を尋問しようと陣の前に出て来た所、若党一人と共に討たれた。また、北条一族の武蔵四郎・武田八郎等が息浜(現在の福岡県福岡市西区)の武時の宿所に押し掛けたが不在であったので、洲崎(現在の福岡県福岡市博多区)から回って櫛田浜口で武時と交戦した。鎮西探題側は武田八郎が負傷し、以下の人間が死亡した。武時は最終的に敗れ、息子の菊池頼隆を始めとする菊池氏一族と共に犬射馬場で戦死した。武時のもう一人の息子の菊池武重は阿蘇と共に肥後国へ落ち延びた。武時の弟菊池覚勝は若党を率い御壺まで攻め込むが全員が打ち取られた。9時に戦闘は終了し武時側は70名余りの死者を出した。その後も少弐・大友の部下が残党を各地で仕留め、200名余りの首が鎮西探題館に届けられ、武時を始めとする270名余りの首を犬射馬場に掛けた。夕方、少弐は堅粕で斬首した八幡宗安含む使者2名の首を北条英時に差し出した。やがて北条貞義が到着し、 北条師頼も博多に向かう途上、武時の孫と若党を横隈(現在の福岡県小郡市)で討ち、首を博多に持参した。鎮西探題は菊池氏の本拠菊池城(現在の熊本県菊池市隈府)攻撃を決定し、英時は部下を菊池城に出陣させた。夜、犬射馬場に掛けられた首は鎮西探題館の中に入れられた。
①竹井孫七
②竹井孫八
③安富貞泰

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