和田義盛と畠山重忠の戦功を巡る口論

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西暦1,189年9月22日
源頼朝が船迫宿(現在の宮城県柴田郡柴田町本船迫下町)に到着する。畠山重忠は、藤原国衡の首級を源に献上し、お褒めの言葉を賜った。源は藤原の首級を首実検した。そこに和田義盛が御前へ進み出て「藤原は私の矢を受けて落命する事になった、重忠の手柄では無い」と言った。畠山は笑って「和田の発言は絵空事だ。殺したと言う根拠は何か。私が藤原の首を持ち込んだのは事実なのに」と言う主旨の発言をした。和田は「首についてはその通りだが、剥ぎ取った藤原の鎧を確認して欲しい。大高山神社の前で私と藤原は弓手に向き合い、私の矢が藤原に当った。鎧の左袖の上から二、三枚目の小札に矢が刺さった穴がある筈だ。鎧は赤糸縅、黒馬である」と返した。源が藤原の鎧を持ち込ませて調べると、左袖の小札の三枚目やや後ろ側に鏨を通したような跡があった。頼朝は国衡に矢を射たかと畠山に問い、畠山は「否」と答えた。源は「和田の発言は全てが一致するのでその通りだろう。但し畠山も本当の事を言っている。畠山は清廉な人柄で詐称する様な性格では無いから、今回の件は偽装ではない。畠山は郎従よりも後に到着したので、和田の矢を藤原が受けた事は知らなかった。大串重親が首を持ち込んで重忠が受け取り討ち取ったと知った。問題にするような事では無い」と結論付けた。

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