後鳥羽上皇の出家に悲涙を堪えた藤原殖子

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西暦1,221年7月20日
安東光成が鎌倉から京都に到着し、西暦1,221年7月7日に北条泰時が手配した4点の問い合わせに対する鎌倉幕府からの返答を六波羅に居た北条泰時等に届ける。以下の主旨の内容であった。
①後鳥羽上皇を隠岐国への流罪とする。
②仲恭天皇を廃位とし、後堀河天皇を即位させる。
③雅成親王・頼仁親王を流罪とするが、配流先は北条に任せる。
④公卿・殿上人は坂東(関八州(相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国))に下し、其れ以下の者は斬首とする。
其の後、以下の人間等が評議を行った。
①北条時房
②泰時
③三浦義村
④毛利季光
結果、鎌倉幕府軍は此れ等を速やかに執行した。

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