足利義視と日野富子の暇乞い、等持院を攻めた武田信賢が食らった畠山義就の反撃

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西暦1,467年9月21日
足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。木造は足利に「北畠教具を頼りなさい」と助言した。足利は、軍事力・経済力を保持していながら、幕政には不干渉で中立の立場を取り、和歌等の貴族的文化を持っていた北畠に惹かれ、伊勢国への逃亡を決意した。其の後足利は、木造に警護され、武者小路通(現在の京都府京都市上京区)を東へ向かい、蛸薬師通(現在の京都府京都市中京区)を経由して一条通(現在の京都府京都市右京区)へ向かった。釘貫門は、東軍の富樫政親の兵が守っていたが、木造は「三条公敦殿は病気で東山に居り、足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」という主旨の発言をした。しかし富樫は不審がって開けず「鍵が無い」と答えた為、木造は、予てから準備していた合鍵で開門した。そして足利は、近江国坂本に入り、石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し、伊勢国に入った。

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