最後の砦である相国寺に散った細川勝之・安富元綱・安富盛継

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西暦1,467年10月30日
以下の人間が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路(現在の京都府京都市の烏丸通)・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。
①畠山義就
②畠山義統
③大内政弘
④一色義直
⑤土岐成頼
⑥六角高頼
対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、以下の人間が率いる3,000騎が迎え撃った。
①細川勝元の猶子細川勝之
②細川勝元の重臣安富元綱
③武田信繁の参男武田国信
三条坊門殿は、以下2名が500騎余で守備していた。
①伊勢国の住人関民部少輔
②備前国の住人松田次郎左衛門尉
しかし、西軍の猛攻の前に直ぐに敗れ、松田は討たれ、関は相国寺に退却した。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路(現在の京都府京都市北区出雲路立テ本町)に退却した。火の手を見た西軍は、一斉に相国寺に突入した。相国寺を破られたら隣は花の御所という後が無い東軍は、総力を挙げて白兵戦を展開した。以下3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。
①勝之
②元綱
③元綱の弟安富盛継
次に、大内・土岐が総門を攻め立てた。しかし、浦上則宗等の奮戦により、大内の花の御所侵入は阻止された。其処で、大内率いる軍は、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが、以下2名等が防戦し、西軍の侵入を阻止した。
①国信
②赤松政則
しかし東軍は、相国寺を放棄せざるを得なくなった。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉・大内が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色・六角も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。西軍は、討ち取った首級を8輌もの車に載せ、意気揚々と自陣に帰還した。一方足利義政は、日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。

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